【二〇一五年 杏】
私はあれから、必死になって雅也のことを訴え続けた。
警察にだって何度も足を運んだ。週刊誌を扱う出版社もいくつか回った。
けれど、どこへ行っても結果は同じだった。皆、まるで見えない壁でもあるかのように、口を閉ざして何も答えようとしない。誰もが何かを隠している――そんな不気味で異様な空気がそこにはあった。
警察内部や出版社にすら、修司の父親の影響が及んでいるのかもしれない。
あの男が裏から手を回し、誰も何も言わないようにしている。そんな卑怯で卑劣なことが、まかり通ってしまうなんて。
呆然とすると同時に、抑えきれない怒りが全身を駆け巡っていった。
許せない。
絶対に許せない! 次の父の面会日。 私は意を決して、すべてを父に話した。雅也のこと、修司の父親のこと。
そして、父がなぜ沈黙を貫いているのかを必死に問いかける。「お父さん……! なんで何も言わないの? あんな奴らのために、なんで!」
父はしばらく驚いたように目を見開いて私を見つめていた。
しかし、その驚きもすぐに消え、何事もなかったかのように目を伏せる。
いつものように無表情に戻り、口を閉ざした。どうして? どうして黙ったままなの?
私は叫び続けた。
父さんは、知っているはずなんだ。
雅也が真犯人だってことを。でも、なぜ何も言わない? どうして罪をかぶろうとするの?
私にはわからなかった。
だけど、確信はあった。
あいつらに、何か重大なことで脅されているのだ。
だから、父は口をつぐみ続けている。でも、それが何なのかまではわからなかった。何度問い詰めても、父は小さく首を振るだけだった。
「大丈夫だ」と言いたげな、どこかあきらめにも似た優しい目を向ける父。
私は、何もしてあげられない自分に
【二〇二五年 杏】 息がかかるほどの距離に、身体が強ばる。 その顔も、吐息でさえ、嫌でたまらない。 私のすべてが、彼の存在を拒絶していた。「正直、気に入ってたんだよ。君のこと。 見た目も、雰囲気も、俺の好みでさ」 雅也は笑った。 けれど……その目は冷たく濁っていた。「ねえ」 突然、ぐっと距離を縮めてきた。 私は思わずのけぞる。 すぐそこにある顔。その唇。 雅也は、そのままふっと微笑んだ。「本当にもったいないよな。君がこんな女じゃなければ、ずっと可愛がってあげたのに」 その瞬間、雅也の笑みが、狂気を含んだものへと変わった。「でもさ――俺を騙そうとしたことは許せない」 その声は、底を這うような、恐ろしいものだった。 背筋がぞくりとし、寒気がする。「おまえ、何様のつもりだ? 俺を振って、復讐? はははっ、馬鹿じゃないの。 おまえごときに、俺が傷つくとでも思ってたのか」 顔を歪めて笑う雅也に、私は全身が粟立つのを感じた。 こいつ、狂ってる。「おまえは所詮、あいつの娘だな」 低く冷たい声音。 その「あいつ」が、誰のことを指しているのか、わかっていた。「……父のことを、あいつなんて呼ばないで」 怒りを抑えきれずに睨みつけると、雅也は目を見開き、やがて楽しそうに口角を上げた。「へえ。まだそんな余裕あるんだ? さすがだよ、ほんと」 次の瞬間、その笑みがすっと消え、視線が鋭くなる。 尖った刃のような声が、私を貫いた。「でもな、調子に乗るな。おまえなんて、俺の前じゃ何もできない。 おまえの父親みたいにな」「うるさい!! 父さんを侮辱するな! おまえのせいで……父さんは、私たちは――どれだけ苦しんだと思っている! 私は、絶対におまえも、おまえの父親も許さない!」
【二〇二五年 杏】 あの夜――あの冷たい雨に打たれて帰ってから、数日が過ぎた。 そして、私は雅也からデートに誘われた。 本当は、会いたくなんてなかった。 でも、あのとき途中で帰ってしまったことが、ずっと引っかかっていた。 電話で一応謝罪はしたけれど、それだけじゃ足りない気がしていた。 ちゃんともう一度顔を合わせ、ご機嫌を取っておいたほうがいい。 そう思って、私は誘いを受けた。 指定された店に着いたのは、午後七時。 これまで二人で飲んだのは、出会ったあのバーだけ。 でも、今日の店は初めての場所だった。 店の扉を押すと、控えめなドアベルの音が響いた。 落ち着いた照明と深い色のインテリアが目に入る。 初めて見る空間に、緊張が走る。 味方がいないこの場所で、雅也と二人きり。 自然と呼吸が浅くなるのを感じた。 気を張っていないと。 もう、あの時のように伊藤くんがそばにいるわけじゃないのだから。 中にはすでに雅也の姿があった。 私を見ると、上機嫌な様子で手を振ってくる。 テーブルの上には、いくつか飲み終えたグラスが並んでいた。 もうだいぶ飲んでる。 ……酔ってる? これはある意味、好都合かもしれない。 前回のこともあまり詮索されずに済む。 そんなふうに、油断していた。 あのとき、すでに罠は仕掛けられていたのだと、この時の私はまだ知らなかった。 軽く付き合って、早めに帰るつもりだった。 けれど、飲み始めてすぐ、強烈な睡魔が襲ってくる。 気づけば、深い眠りに落ちていた――。 目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋のベッドの上だった。「……ここ、は……?」 ぼやけた視界の中、なんとか体を起こそうとする。 その時、すぐ傍から声がした。「おや、目が覚めたかい?」 その声に顔を向けると、雅也が立っていた。 背広は脱がれ、ネクタイも外され、シャツの上のボタンがいくつか開いている。 ゆっくりと、大げさにため息をつきながら彼は言った。「君には本当に驚かされたよ。まさか、あの男の娘だったなんてね」 その瞬間、眠気が一気に吹き飛ぶ。 目を見開いた私を、雅也はくくっと笑いながら見下ろした。「もう少しで騙されるところだった。演技、なかなか上手かったよ?」 そう言って、彼はベッドの端に腰を下ろすと、ゆっ
【二〇二五年 新】 すやすやと眠る詩織さんを、そっとベッドに寝かせる。「……ごめんなさい」 謝罪の気持ちを込めて、小さくつぶやいた。 何も知らない純粋な女の子を、騙して利用するなんて。 罪悪感がないわけじゃない。 けれど、それでも。 僕には、やらなきゃならないことがある。 覚悟を決め、部屋を出た。 あの男の部屋はどこだ? いや、寝室よりも、仕事に使っている書斎の方が可能性は高い。 そう思ったとき、ふと、姉さんが偶然見つけた書斎らしき部屋を思い出す。 ……あそこだ。 直感がそう告げた。 急ぎ足で廊下を進む。 数人のメイドや執事とすれ違ったが、なんとかやり過ごしながら前へ進んだ。 広々とした廊下に、シャンデリアが煌々と光を放っている。 壁には高価そうな絵画や装飾品がずらりと並ぶ。 どこを見ても、限りなく贅沢な世界。 どうして、金持ちってこう無駄が好きなんだろう。 緊張を紛らわせるためか、 そんな考えがふと頭をよぎり、つい笑ってしまった。 目的の部屋にたどり着き、静かに扉を開ける。 中は薄暗く、人の気配はない。 そっと足を踏み入れる。 他の部屋よりはやや狭く、壁際には本棚が並んでいた。 簡素なソファと机。 そして奥にはデスク。 僕は迷わず、まっすぐにそのデスクへ向かった。 引き出しを開けようとするが――鍵がかかっている。 この中だ。 確信に近い感覚があった。 どうにか開けようと、力任せに引く。 けれど、なかなか開かない。 焦りが募る。 どうする……。 そのとき、足音が聞こえた。 扉の向こうに、人の気配。 やばい。 僕はとっさに身を潜める。 ガ
【二〇二五年 新】 姉さん、無事だろうか。 窓にふと目をやる。 街灯に照らされた雨が、しとしとと静かに降り続いていた。 雨に降られてないといいけど……そんなことばかりが頭をよぎる。 修司さんの話しぶりから察するに、姉さんはこの屋敷を出て行ったのだろう。 きっと、修司さんと何かあったんだ。 今すぐにでも追いかけていきたかった。 でも、と僕は自分を押しとどめる。 ここに来た目的を思い出せ。 詩織さんを利用して、この屋敷に潜り込む。 そして父さんの冤罪を晴らすための証拠を見つける。 それが、すべてだったはずだ。 それなのに。 こんなふうに人を騙してまでやるべきことなのか? ふと、心の奥に、小さな声が問いかける。 目的のために、月ヶ瀬家の長女、詩織さんに近づいた。 幸運にも、彼女は僕にすぐ心を許し、好意を寄せてくれた。 そして、あれよあれよという間に付き合うことに。 我ながら、プレイボーイなんじゃないか。 などと感じてしまい、自分が嫌になったりもした。 純粋な彼女の想いを利用しているようで、心苦しかった。 でも、これは仕方のないことなんだ。 そう、自分に言い聞かせる日々。 食事のあと、僕は詩織さんに連れられ、彼女の部屋へとやってきた。 二人きりで時間を過ごす。 でも、どれだけ笑顔を向けられても、心の奥ではずっと姉さんのことが引っかかっていた。 姉さん……どうしてるかな。 そんな思いに、また胸がざわめく。 ため息をついた瞬間、詩織さんがそっと寄り添ってきた。「新さん……」 身体を預けてくる彼女の温もり。 それから逃れるように、僕はわずかに距離を取った。 その途端に、詩織さんの表情が曇る。 ……本当に素直な人だ。 姉さんも、これくらい素直
【二〇二五年 修司】 どこをどう通ったのかも覚えていない。 ただ無我夢中で、気がつけば自室の前に立っていた。 震える手で扉を開け、静かに閉じる。 扉を背にして俺はずるずると崩れ落ちていった。「……っく……ひぃ、っ」 悔しくて、苦しくて、どうしていいかわからない。 押し寄せるやるせなさに、ただ嗚咽が漏れた。 けれど――杏は、きっとこれ以上の苦しみを味わってきたんだ。 十年間、こんな地獄を背負って生きてきた。 父親の冤罪。 命まで奪われたというのに、真実も明かされず、誰からも守られることなく、ただ耐えて。 そして、その相手の弟である俺を好きになってしまった。 なんて、残酷なんだ。 やっと、やっとわかったよ、杏。 あの時、君が言った言葉の意味。『私はあなたを好きになっちゃダメなの!』 そうだよな。 俺は、君の大切な人を奪った一族の人間だ。 憎むべき相手だったはずなんだ。 なのに、そんな俺を君は好きでいてくれた。 苦しみながら、それでも気持ちを消しきれず、もがき続けてきたんだよな。 俺だけ、何も知らずに。 のうのうと笑って、また君の前に現れて。 どんなに辛かっただろう。 どれだけ泣いたんだろう。 ごめんな、杏……。 本当に、馬鹿な俺で、ごめんな。 でも。 それでも、君が俺を想ってくれていたこと――それが嬉しいと思ってしまう俺がいるんだ。 最低だよな。 君を楽にするためなら、俺を憎んでくれてよかったのに。 全部ぶつけてくれたって、よかったのに。 だけど、君は俺を傷つけたくなかったんだ。 復讐という闇を抱えながらも、心の奥では、俺のことを守ろうとしてくれていた。 ……そんな君が、たまらなく愛しい。 どれだけ嫌われても、きっと俺は、君を好き
【二〇二五年 修司】 瞬きするのも、息をするのも忘れていた。 ただ、二人の姿を食い入るように見つめる。「……は? 何だって?」 兄は絶句し、しばらく沈黙した。 父も何も言わず、黙り込む。「ちょっと待って。杏が、あの男の娘? そんな……そんな偶然」「本当におまえは察しが悪いな。 それに運も悪いし、見る目がない。あんな女に惚れるなど」 父は呆れたように兄を見つめ、重く、深いため息を吐いた。 いったい、何を言っている? 十年前――罪を擦り付けた男。その娘が、杏? 俺の中で、何かが崩れ始めた。「名前を聞いてもわからなかったのか? 本当におまえは詰めが甘いな。 ま、仕方ないか。あの時もおまえは私に全てを任せていたからな。名前など覚えていないのだろう。 俺がどれだけおまえのために働いたか。 あの女を呼び出し、口止めまでして、大変だったんだからな」 父が何かを思い出したように、鼻で笑う。「あ、ああ……。あの時のことは感謝してるよ。 親父にはうまくやってもらった。俺の罪をあいつにすんなり擦り付けることができたからな。 まあ、俺の脅しも相当効いてたと思うけど」 先ほどまで戸惑っていた兄が、不敵にニヤリと笑った。 心臓がドクドクと音を立て、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。 目の前が、一瞬赤く染まった気がした。「ふん、何をえらそうに。そんな脅しだけで全て済むと思っているのか。 私の根回しがなかったら、あれほどスムーズにいくものか。 本当に、いつもいつもおまえの後始末には手を焼かされるよ。中でもあの事件は一番手を焼いた。 ――あの佐原杏の父親に、おまえの殺人の罪を擦り付けるのは」 その言葉に、俺のすべてが停止した。 体が硬直し、息が詰まる。手足の力が抜け、ひざが笑う。 今の……何だ? 意識の奥底が、鈍い音を立てて崩れていく。 焦